— 子どもが止まる瞬間 —
「もっと積極的にいけ」
そう言われた小学生がいました。
その子は、次の試合で意を決してシュートを打ちます。
何度も、何度も。
けれど返ってきたのは、
「それは無闇矢鱈だ」という言葉でした。
子どもは、敏感で、かしこい。
「シュートを打て」
「無闇矢鱈に打つな」
その言葉の間で、
「どっちや?」
と揺れます。
そして多くの場合、
自分の行動によって監督が怒っていると感じると、
「やらない方」を選ぶようになります。
それは、理解していないからでも、
怠けているからでもありません。
場に適応しようとする、自然な反応です。
あれもダメ、これもダメと規制が増えていくと、
子どもはどこで勝負していいのか分からなくなっていきます。
手も足も出せないまま、
ただ正解を探すようになる。
それは消極的になったのではなく、
そうせざるを得ない状態になっているのかもしれません。
その子は、保護者の方もヘッドコーチも認める選手です。
「もっとシュートを打て」
「無闇矢鱈に打つな」
どちらの言葉も、
それぞれに意味があるはずです。
だからこそ、
どちらが正しいのか、
誰の言葉が間違っているのか、
そこに焦点を当ててしまうと、
誰かを悪者にして終わってしまいます。
本当に見ていきたいのは、
その言葉を受け取った側で、何が起きているのか。
どう解釈し、
どう感じ、
次の行動にどう繋がっているのか。
シュートが入ったかどうかではなく、
その中で何が起きていたのか。
迷いながらでも打てたのか。
前に出る意識が生まれたのか。
判断のスピードは変わったのか。
そうした一つひとつは、
確かに“できたこと”として存在しています。
しかし、その瞬間にそれが拾われなければ、
別の形で残っていきます。
「あれでよかったのか」
「もう動かない方がいいのか」
言葉にならないまま、
どこかに留まり続けることがあります。
その瞬間に起きたことは、
その瞬間でしか扱えません。
そして多くの場合、
そこには“観ている人”がいます。
評価するでもなく、否定するでもなく、
ただ、起きたことを受け取る存在。
すべてのタネを明かしてしまえば、
そこから先の成長は、止まってしまうのかもしれません。
だからといって、
すべてを親が、指導者が、先生が、
理解しなければならないわけでもありません。
ただ最近は、
見えないものをそのままにしておくことが、
少し難しくなってきているようにも感じます。
すぐに理由を求め、
すぐに説明を求め、
すべてを把握しようとする。
それ自体が悪いわけではありませんが、
その中で、こぼれ落ちていくものもあるのかもしれません。
見えないままでも、いい部分がある。
言葉にしきれないまま、進んでいくものがある。
その“間”に関わる存在として、
コーチがいるのかもしれません。
血は繋がっていても、別の人間です。
すべてを伝えることはできないし、
すべてを代わることもできない。
だからこそ、
自分で気づいていく余白が残されているのかもしれません。
子どももまた、
自分で触れ、感じ、学んでいく。
その過程は、誰にも代わることができません。
だからこそ、そこに意味があるのかもしれません。
📩 無料メール講座のご案内
日常の中で、
少し立ち止まる時間として
受け取っていただけたら嬉しいです。
必要なタイミングで、どうぞ。
体験セッション・お問い合わせは
こちらよりご覧いただけます。

この記事へのコメントはありません。