何かになろうとしない

 

僕ら人間は、何かに当てはめられると安心する生き物です。

クラス分け。
タイプ分け。

肩書き。
病名。
金持ち、貧乏。
有名、無名。
成功、失敗。

「私はこういう人です」と言えると、
どこか安心する。

コーチングや心理学の世界でも、
メンタルモデルやストレングスファインダーのようなソーシャルツールがあります。

占いもそうかもしれません。

学ぶと楽しいし、
「私は〇〇タイプだから」
と言えると、少しホッとする。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。

自分を知る入口になることもあるし、
他者理解の助けになることもある。

ただ、時々感じるのです。

僕たちは、
“何かになること”に意識を向けすぎて、
“自分でいること”から離れていないだろうか、と。

これからの時代は、
答えのある教育より、
答えのない教育が増えていくと言われています。

正解を覚えるよりも、
自分で問いを持つこと。

誰かの型に入ることより、
自分の感覚を使うこと。

何かに当てはまるのではなく、
“自分で在ること”が、
自然と求められていくのでしょう。

ここで、スポーツの世界に話を戻します。

「野球選手の〇〇です。」

もちろん、それも素敵です。

ただ、
これからは、

「〇〇です。野球が好きでやっています。」

そんな在り方が、
もっと自然になっていく気がしています。

競技が先ではなく、
人が先にある。

肩書きより前に、
ひとりの人間として、
何を感じ、
何を好きで、
何を表現したいのか。

そういう部分が、
これまで以上に大切になっていくのかもしれません。

一方で、
現代のスポーツ現場では、
“楽しめない”という声も増えているように感じます。

元々、スポーツは娯楽的な存在でした。

夢中になって、
気づけば時間を忘れていた。

勝ち負けを超えて、
身体を動かすことそのものが楽しかった。

けれど、いつの頃からか、
評価、結果、比較、数字、将来性。

様々なものが入り込み、
純粋に「好きだからやる」が、
少しずつ見えにくくなっていった。

昨年出会った、
僕より30歳ほど若い20代の元トップ選手たちも、

「楽しむ感覚がわからない」
「全然楽しめなかった」

そんな心の声を話してくれました。

その時、僕は少し驚きました。

同時に、
どこか安心もしました。

極めて明るく見える現代の若者たちも、
実は見えない葛藤を抱えている。

そのことに気づいた時、
僕自身が持っていた先入観が、
静かにほどけていったのを覚えています。

世界を目指すトップアスリートたちの中にも、
同じような感覚を持っている人は少なくありません。

何かになろうとし続けると、
人は、
いつの間にか“今の自分”を否定し始めます。

もっと結果を出さなければ。
もっと認められなければ。
もっと〇〇らしくならなければ。

けれど、
本来、スポーツは、
何者かになるためだけに始めたものではなかったはずです。

好きだった。
楽しかった。
夢中だった。

そこに、
理由なんてなかった。

そして、
いつの間にか没頭していた。

周囲も、
それを無理に遮らなかった。

45年前、
ただ楽しくて、
夢中でボールを追いかけていた少年時代。

振り返ると、
あの頃の僕は、
“何かになろう”としていたわけではありませんでした。

ただ、
好きだった。

だから、
無理に何かになろうとしなくていい。

野球選手になる前に、
サッカー選手になる前に、
メンタルコーチになる前に、

まず、
ひとりの人間として、
自分で在ればいい。

何かになることより、
“自分でいること”。

これからの時代は、
そちらの方が、
ずっと強く、
ずっと自然なのかもしれません。


📩 無料メール講座のご案内

日常の中で、
少し立ち止まる時間として
受け取っていただけたら嬉しいです。

必要なタイミングで、どうぞ。


関連記事

  1. データと肉体

  2. 出過ぎた杭

  3. 本音と口論

  4. 没頭する

  5. 何が正しいかなんて棺桶に片足突っ込まないと分からないじゃない…

  6. ジャッキーロビンソンデー

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。