出過ぎた杭

— 存在を均さないということ —

もう10年ほど前、友人が、アドラー心理学研究の第一人者でもある 岸見一郎 先生を京都からお招きしてイベントを開催するということで、場内整理などのお手伝いをしたことがあります。

もちろん、僕自身もお話を聴く機会がありました。

人の「選択」についてのお話が中心だったように記憶していますが、今でも印象に残っている場面があります。

岸見先生はとてもサービス精神旺盛な方で、講話後の質問コーナーでも、気さくに何でも答えてくださいました。

大人の選択の話から始まり、
子供、
赤ちゃん、
最後はペットの選択の話にまで広がり、
会場は笑いに包まれていました。

俳優の 火野正平 さんとの対談経験から、「火野さんの持つ美しさ」の話などもされていて、とても興味深い時間だったことを覚えています。

その中で、
今でも時々思い出すのが、
「出る杭」についてのお話です。

当時は、コーチング起業が盛り上がっていた時代でした。

有名になったコーチたちは、
セミナーや講演でよく、

「出過ぎた杭は打たれない」

という言葉を使っていました。

僕自身も、その言葉に励まされていました。

けれど同時に、
ほんの少しだけ、
違和感のようなものも感じていました。

本当にそうだろうか、と。

講演の中で、
岸見先生は、

「出ている部分が、その人の個性なんです」

と仰いました。

そして、

「その出ている部分を、愛してあげることが大切なんです」

と。

当時の僕には、
その言葉がとても新鮮に聞こえました。

なぜなら、
出ている部分というのは、
多くの場合、
「直さなければいけないもの」
として扱われやすいからです。

空気を読みすぎない。
感受性が強すぎる。
こだわりが強い。
喋りすぎる。
静かすぎる。
熱量が高すぎる。
周囲とテンポが違う。

そういう“出ている部分”は、
時に、
「普通ではない」
として扱われます。

けれど、
その出ている部分を削り続けると、
最後には、
その人らしさまで消えてしまう。

協調性という言葉があります。

もちろん、
組織において大切なものかも知れません。

けれど時々、
その言葉が、
「突出を均すため」
に使われているように感じることがあります。

日本の教育は、
ある意味で、
30点を50点へ、
50点を70点へ引き上げることに長けています。

平均的な水準を保つ。
空気を読む。
周囲と合わせる。

それによって、
社会は安定してきた部分もあるでしょう。

ただ現代は、
30点以下だけではなく、
70点以上もまた、
“出過ぎた杭”
として扱われることがあります。

熱量が強すぎる。
没頭しすぎている。
感覚が鋭すぎる。
空気を変えてしまう。

すると周囲は、
「協調性」という言葉を使いながら、
少しずつその突出を均していく。

本人もまた、
浮かないように、
嫌われないように、
少しずつ自分を弱め適合していく。

スポーツの現場でも、
これは珍しい話ではありません。

本来、
チームを前に進めるはずの突出が、
“扱いづらさ”
として処理されてしまう。

そして、
尖った存在を失った組織は、
一時的に穏やかになります。

けれど同時に、
推進力も失い消えていくことも。

勝負の世界は、
平均だけでは、
なかなか突き抜けられません。

だからこそ、
これからの指導者や組織には、
「突出を消す力」ではなく、
「突出を活かす器」
が求められているのかもしれません。

多様性という言葉があります。

けれど、
それは、
「全員を好きになりましょう」
という話ではないと思っています。

認め合うとは、
嫌いな人を無理に好きになることではない。

「こいつとは合わない」

それでも、

「この場面で、こいつにボールを渡せば何とかしてくれる」

そういう信頼が存在すること。

スポーツの現場では、
むしろそのくらいの距離感の方が自然なこともあります。

価値観も違う。
性格も違う。
テンポも違う。

それでも、
互いの役割や突出は認識している。

けれど日本では、
時々その違いを、
“空気に馴染ませること”
が優先されてしまう。

浮かないように。
出過ぎないように。
空気を乱さないように。

そうやって、
突出を削り続けた結果、
組織は一時的に穏やかになります。

ただ同時に、
前へ進む推進力まで失っていくことがある。

そして最後に、
岸見先生が少し笑いながら、

「だけど、日本人は出過ぎた杭を引っこ抜いて、ポイってしちゃうんですね〜」

と仰った時、
なぜか少し、
胸の支えが軽くなったことを覚えています。

あぁ、
やっぱり、
“引っこ抜かれてきた感覚”を持っている人は、
沢山いるんだな、と。

「出過ぎた杭は打たれない」
ではなく、

実際には、
苦しかった人もいた。

生きづらかった人もいた。

その感覚ごと、
否定しなくていいのだと、
どこか救われたような気持ちになりました。

僕が日頃から、
「存在にフォーカスする」
と唱えているのは、
そういうことです。

何かになろうとする前に、
まず、
“既にそこにあるもの”
を、
無理に削らない。

凸も、
凹も、
ただそこに置いておく。

すると、
不思議と自然に融和していく。

本来、
人や組織には、
そういう力があるのだと思います。

大切なのは、
その流れを、
無理に止めないことなのかもしれません。


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