ジェノサイドメモリアル

 
 
2019年の2月上旬、僕は岐阜の居酒屋「ニュータマミヤ」で、盟友 松尾太ニ とお酒を飲み、楽しく過ごしていました。
当時の僕は2018年12月をもって前職を退職し、“退職金の旅”と称して国内外を旅していました。

 

日付が変わろうとした深夜、「3月4月またぎで台湾に行ってくる」と話すと、太ニが「どうせならルワンダ行ってきたらどうですか?」と言います。

そこで、ルワンダ在住の共通の友人にメッセンジャーで同じ日程を送り、「10分以内に返事が来たら行くよ」と、本気と冗談を半々で構えていました。

すると、2分も経たずに
「welcome!他の人ならやり過ごすけど、福岡さんなら本当に来てくれるよね?」
と返事が来ました。

それが、ルワンダに行くきっかけでした。

 

当初の予定よりも、4月7日のジェノサイドメモリアルへの参加を勧められ、日程をずらして渡航することになりました。

 

ルワンダ在住の彼女からの指令は、
「ジェノサイドの本を最低でも3冊は読んできて!」
というものでした。

しかし恥ずかしながら、当時の僕はジェノサイドのことをほとんど知りませんでした。

 

今日4月7日は、現在でもルワンダでジェノサイドと向き合うメモリアルの日です。
陽気なルワンダの街も、ここから約3ヶ月間は追悼と内省の時間に入ります。

 

ルワンダのジェノサイドは、約100日間で行われた大虐殺です。
武器ではなく、主に撲殺によって行われたことから、歴史上でも極めて特異な出来事として語られています。

 

経緯については様々な著書で語られていますが、フツ族とツチ族の対立が背景にあったのは確かです。
一方で、この両者は民族ではないとする説もあります。

 

大まかに言えば、フツ族主導で計画され、
時間をかけてフツ族とツチ族が仕分けされていきました。
ハーフもツチ族とみなされ、対象となります。

 

その状況を知っていたツチ族の人々は、
人口の95%以上がカトリックであることから教会に逃げ込みます。

「教会なら安全ではないか」

 

そう言われたその先に何があったのかは、
本コラムではここまでにしておきます。

 

ただ、フツ族の牧師をはじめ、政府や医者、先生——
信じていたものが、すべて信じられなくなる。

 

その状況に、自分は耐えられるだろうかと、
ふと立ち止まりました。
 

ジェノサイドが起きたのは1994年。
僕が24歳の頃でした。

 

当時の僕は宮崎市内で会社員として働き、
何不自由なく日常を過ごしていました。

 

その同じ時間に、地球の裏側でこのような出来事が起きていたことに、
強い衝撃を受けました。

 

僕が訪れた2019年は、25周年のメモリアルの年でした。
すれ違う25歳以上のルワンダ人たちは、
目の前で家族が殺されるのを見てきた世代です。

 

陽気な気質の裏に、
どんな感情があるのか。

その問いは、滞在中ずっと消えることはありませんでした。

 

日本よりも安全なルワンダ

 
自粛期間とはいえ、街は日本の日常よりも明るく、
夜中にはクラブからの音楽が鳴り響いていました。

 

僕をアテンドしてくれた友人は、
夜中に一人で歩いて帰っていきます。

「大丈夫なの?」と尋ねると、
「日本より安全よ」と言って手を振って去っていきました。

 

ルワンダには5泊6日滞在しました。

日を追うごとに、「この国は安全だ」という感覚を超えて、
「この人たちは争うことを馬鹿らしいと感じているのではないか」
という感覚に変わっていきました。

 

現在はツチ族出身の大統領で、
紛争が起きないよう統制しているという話も聞きました。

 

しかし僕には、それ以上に、
争うこと自体が意味を持たないものとして、
自然に根付いているように感じられました。

 

ジェノサイドから25年。

死体の山、白骨に名前を付けて残すという現実を経たとき、
人はこうなるのかもしれない。

そう強く感じました。

 

同時に、復興が進み物が溢れる時代になったとき、
再び争いが起こるのかという問いも残りました。

 

助け合いの心

 
ある日の朝、バスターミナルへ向かう途中、
キガリの大きなマーケットを横切りました。

 

八百屋が100件近く並び、
どの店も同じように商品を積み上げています。

 

売れている店は完売し、
売れていない店は山積みのまま。

 

その光景を見ながら、
アテンドの友人が「覚えておいて」と言いました。

 

そして夕方、同じ場所を通ると、
すべての店が完売していました。

 

売れていない店の商品を、
完売した店が買い取る。

 

そうした助け合いの文化が、そこにはありました。

 

ジェノサイドから25年経つと人はこうなるのか。

それとも、ジェノサイドがなくても、
本来こうした在り方は可能なのか。

 

その問いは、今も自分の中に残っています。

 

スポーツ

 
ルワンダでは毎朝ランニングをしていました。

 

キブの街を走っていると、小学生たちがついてきて、
競争を仕掛けてきます。

 

並走しながら学校での徒競走について尋ねると、
「???」という反応でした。

 

体育の授業では、ダンスしか行われていないとのことでした。

 

ただ、いくつかサッカー場の建設も進んでおり、
7年経った今、競技環境が少しずつ整っていることを願っています。

 

当時のルワンダでは、
ランニングは「運動」ではなく「移動手段」でした。

 

自転車で荷物を運ぶ人たちの姿も印象的で、
その身体は日常の中で自然に鍛えられていました。

 

それもまた特別なことではなく、
ただの生活の一部でした。

 

最終日の2019年4月7日、
アマホロスタジアムで行われたジェノサイドメモリアルに参加しました。

 

お昼過ぎから行われるパレードにも加わり、
4万人収容のスタンドは満席。

フィールド内には加害者と被害者が一堂に会し、
「このような過ちを二度と起こしません」と全員が言葉にします。

 

スタジアムのオーロラビジョンには、
ジェノサイドのショート映像が流されます。

 

その間、
言葉では表せない悲鳴が、スタンドのあちこちから聞こえてきました。

 

追悼の儀の最中、
本格的なスポーツ競技のないルワンダで、

 

「もしここで何かが開催されたら、必ず観に来たい」

 

そんな感覚が、自然と湧き上がってきました。

 

衣食住が揃っていることも、
本当は“普通”ではないのかもしれません。

 

あえてそれを普通と呼ぶのだとしたら、

 

その上に、
楽しみや熱狂できるものがあるということ。

 

それは決して当たり前ではなく、
とても特別なことなのではないかと、強く感じました。

 

いつ、体が動かなくなるかわからない。
いつ、未曾有の大震災が起こるかわからない。
いつ、家族の看病が始まるかわからない。

 

今、その特別なものに熱中できるとしたら、
特別なものがあることに感謝の念を抱き、
周囲の目に臆せず没頭したい。

 

そして、そういった人たちを全力でサポートしたい。

 

改めて、メンタルモデルにおける僕のライフミッションは、
安心安全を創造すること。

与えられた肉体を通じて、自己を表現すること。

 

すなわち、

 

安心して、いろんなものに触れられる空間をつくること。

 

無条件の愛。

 

ルワンダに訪れたあの時、
もう一度、そんなことを信じてみたいと思いました。


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